岡嶋かなたの夫と子供(家族)や旦那の仕事は?作曲家になった理由は?今と昔の画像あり

芸能

10月30日(19:56~)世界一受けたい授業で岡嶋かな多さんが出演される予告を見て、岡嶋かな多さんの家族(旦那と子供)や作曲家に転身した理由を調べてみました。

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プロフィール

名前岡嶋 かな多(おかじま かなた)
生年月日1984年 7月7日
出身青森県
事務所フリー 業務提携MUSIC FOR MUSIC

岡嶋かな多さんは、作詞家、作曲家、音楽プロデューサー、ボーカルプロデューサーとして活躍されています。

幼少期3歳~8歳はアメリカで過ごしていた帰国子女であり、今現在は東京を拠点として活動しています。

アメリカで育った経験を活かし、英訳、英詞、ラップボーカルディレクションもされているようです。

岡嶋かな多の家族(夫と子供)は?

岡嶋かな多さんは、ご結婚しています。

結婚式では、お友達が結婚行進曲を披露したいといって楽器を持ってこられたそうです。

とても楽しく、幸せそうな結婚式だとこの写真一枚で伝わってきますね。

そして、お子さんも授かったようです。

名前は琉生(るい)くん。

ふた文字でユニセックス、世界のどこに行っても呼ばれやすく親しみやすい名前がいいね、と夫婦で相談してつけました。「琉」という漢字には宝石、原石という意味合いがあって、この混沌とした世の中で、原石のようにたくましくキラキラと「生」きてほしい。そんな願いをこめています。

岡嶋かな多の夫の仕事は?

岡嶋かな多さんのご主人の名前は澤田知之さんです。

PRプランナーのお仕事をされているそうです。

カーツメディアワークス PRプランナー

得意な企画:情報に道筋を作る企画

学歴・職歴コンプレックスを吹っ飛ばして、それすらも個性だと気付かせてくれた素敵な場所。価値ある情報が届かない混沌とした現実を、魂込めた企画で変えてみせるぜよ。

とご自身のPRをHPでしていました。

満面の笑みがいですね♪お子さんを抱いて幸せそうなのが伝わってきます(*´ω`*)

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音楽の世界に入った理由

岡嶋かな多さんは元々、ミュージシャンとして活動されていました。

16歳から音楽一筋で高校進学せず、音楽の世界で生きていくと決め、バンドのボーカルを務めていました。

中学校の頃、進路を決める際に両親に『一般の高校に進学をして夜間に音楽スクールで学びたい』と訴えた所、意外な答えが返ってきたそうです。

『自分が生きたい道を生きろ。でも自由を与えるかわりにサポートはしない』

と言われたそうです。

そして、高校進学をやめ音楽スクールに自宅から片道2時間かけて通ったそうです。

17歳で中卒のフリーター

『シンガーソングライターとしてグランプリ総なめして即デビュー』という野望を持っていたそうです。

ですが、実現する気配がなくどうしようと悩んでいるうちに2年がたち武道館どころか、17歳で中卒のフリーターになってしまったそうです。

そして、サポートをしないと両親がいっていた通り、岡嶋かな多さんは貧乏生活がスタートします。

当時の岡嶋かな多さん

バンドをするにはスタジオを借りなければならない、ライブは集客のノルマがあるのでチケットを買い取って売りさばかなくてはいけない。いくらアルバイトをしてもお金が足りない。。。。

ひどい時にはおにぎり片手に中華料理屋のダクトの前にさりげなく立ってそこから出される中華の匂いをおかずにしておにぎりを食べていたこともあったすです。

バンドも3年で空中分解し、『ごめんなさい』と頭を下げて脱退されました。

そして20歳の時にソロ活動をスタートしました。

NHK前で路上ライブ

当時は路上ライブの全盛期だったようです。

路上からデビューした川嶋あいさんの影響があり代々木公園のNHK前は激戦区といわれていました。

その中で歌っていた岡嶋かな多さん。

多い時で40人前後の人が集まったようですが、人気爆発とまでいかず、先がみえずもやもやしていたようです。

当時ツタヤで18歳から6年間アルバイトをしていたようで、スタッフ割引でCDをレンタルし邦楽、洋楽問わず片っ端から聞いていたそうです。その数1000枚以上だとか。

この時に聞いていた歌詞やメロディーが今の岡嶋かな多さんを作ってきたようです。

ソロ活動を始める前から音楽学校時代に出会った作曲家を通して『仮歌』の仕事をするようになったそうです。

仮歌とは作曲家が自分の曲をプレゼンする時に曲だけだと伝わりにくい為、メロディー部分をシンガーが歌うという仕事です。正式な歌詞ではないので仮の歌です。

仮詞はシンガーが歌いやすいように仮の詞をつける。

そういうお仕事もされていたようです。

『音楽の仕事ならなんでもやりたい』

そういう思いで仕事の話がきたらすぐ受けていたそうです。

岡嶋かな多さんが仮歌でうたった曲を聞いた事務所が、このこいいね、と別の仮歌の仕事やバックボーカルの仕事をまわしてくれるようになったそうです。

『この仮詞がいい』と歌詞として正式に採用される事もあったそうです。

こうしていくうちに、単価2000円の仕事が5000円1万円とあがっていきました。

安室奈美恵『Steal My Night』がきっかけ

作詞家として脚光を浴びるようになったのは安室奈美恵さんの『Steal My Night』が2009年にリリースされると仕事の依頼が増えたそうです。

この歌は音楽プロデューサー、ジェフ・ミヤハラさんと組んで書いた歌詞が採用されたそうです。

この歌詞を書いた時は25歳でした。

その時にはバンドもされていて、全国をエアコンの効かないハイエースで移動をしていたそうです。

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作曲家になった理由

2015年12月15日。

東京の国立代々木競技場第一体育館で安室奈美恵のライブが開催されました。

延べ約40万人を動員したツアーの中でもファンにとっては特別なライブになったのではないでしょうか。

9月に『安室奈美恵』と『Crystal Kay』が『REVOLUTION』をリリース

その 『Crystal Kay』がサプライズでライブに登場しました。二人で自分が書いた詞を歌う姿に泣いていたそうです。

「私が小さな机で書いてる一文字、一文字を、こんなに素敵な表現者が何万人、何百万人に届けてくれる。これ以上の仕事ってないよね。私が作る曲や歌詞を聞いて、今日も頑張ろう、今日も生きようって思ってくれたら嬉しいし、最高の表現者を通してそれが実現できるなら、私にとってそれ以上の幸せはない」

その感動から、きっと作曲家として黒子に徹して仕事をする覚悟ができたように思えます。

今ではチャート1位の曲を100曲以上作ってこられています。

表参道の音楽スクールに通っていた2000年は、学校のピアノに突っ伏して毎日泣いていたそうです。

高校に進学しなかったことを後悔して泣いていたそうです。

けれど、岡嶋さんのこの行動は、きっと間違いではなく突っ走っていく岡嶋かな多さんの才能を開花させる為の本能が働いたのではないかと思います。

ご両親がサポートをしないと言ったのにも、しっかり苦労をして厳しい世の中でも立派に育つ為の親心だったのではないでしょうか?

今では天才といわれるほど、有名作曲家になりました。

まとめ

  • 10月30日(19:56~)世界一受けたい授業で岡嶋かな多さんが出演する
  • 岡嶋かな多さんはご結婚しお子さん琉生(るい)君と3人家族
  • ご主人は澤田知之さん。PRプランナーの仕事をしている。
  • 岡嶋かな多さんは、音楽一筋で高校進学せずアルバイトをしながら音楽活動していた
  • 作詞、作曲の仮歌、仮詞を作りながらやがて安室奈美恵の歌でヒットし作曲家として成功を収めた
  • 今ではチャート1位の曲を100曲以上作ってきた

という事がわかりました。

天才もすごい努力をして勝ち取ってきたまさに努力の結晶をダイヤモンドにした人だなと感じました。

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