【日曜美術館】ルーブル美術館に作品を封じ込められた男 ジェリコーの一生

TV番組
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9月19日(21時~)日曜美術館で「ルーブル美術館 美の殿堂の500年(2)永遠の美を求めて」が放送されます。この放送の中でテオドール・ジェリコーの作品が出るのですが、衝撃的な事実があるんです。

そのジェリコーの一生をおってみたいと思います。

プロフィール

名前デオドール・ジェリコー
生年月日1791年9月26
死去1824年1月26日

19世紀前半に活動していたフランスの画家です。

同じ時代に起きた生々しい事件を題材にし、これが、とても問題になり政治的立場からの議論が行われました。

その結果、ルーブル美術館が買取意欲を示しましたが、購入の後ジェリコーに買取料を支払わずに作品を展示する事なく倉庫の奥深くに隠しました。

では、どうしてそうなったのか、ジェリコーの生い立ちや時代背景をおっていきましょう。

ジェリコーの作風

ジェリコーの作風は古典主義を基本にしたものが多いです。

生来神話画や宗教画を好まず、現実社会の描写に深い関心を示しました。

生と死が隣り合わせの極限状態における人間の姿を書いた『メデューズ号の筏』

人間存在の本質に迫り、徹底した写実を追及しました。

こうしたジェリコーの作品はドラクロワなどのロマン主義、クールベなどの写実主義など、19世紀ヨーロッパの絵画の先駆け的存在になります。

印象派などの近代絵画を先取りしたといわれている突撃する近衛猟騎兵士官。

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ジェリコーの生い立ち

ジェリコーは1791年北フランスのルーアンの裕福な家庭に産まれました。

1796年頃に家族とともにパリに移住。

資産家で弁護士でもあったジェリコーの父親はジェリコーが絵画以外の安定した職に就くことを望みました。

けれどもジェリコーは絵画への情熱を捨てきれずに1808年、当時17歳になったジェリコーは、画家のカルル・ヴェルネに弟子入りをします。

画家のジェリコーは、神話や聖書の物語よりも身の回りの現実を描く事に関心を示しました。特に馬に対する関心は並みならぬものがあったそうです。

生涯にわたり馬を題材にした作品が多く残っています。

ジェリコーは師であるヴェルネの馬や騎馬人物像が単なる綺麗ごとであり、動物としての躍動感にかけていると思っていたそうです。

このヴェルネは馬や騎馬人物像がの画家として当時、第一人者と言われていたそうです。

そしてヴェルネの元を去り1810年から1811年にかけて別の師の元へいきます。

ピエール=ナルシス・ゲランの元へ行きます。

ジェリコーはこの師にも満足せずルーブル美術館に通います。

そして過去の巨匠たちを師とするようになります。

1812年、ジェリコーが21歳の時に『突撃する近衛猟騎兵士官』をサロンの出品し賞金を得ました。

続いて1814年ジェリコーが22歳の時に『戦場から去る負傷した胸甲騎兵士官』を出品しました。

ジェリコーが正式に出品した作品はこの2点と問題があった『メデューズ号の筏』でした。

ジェリコーは1816年~1817年に、イタリアに滞在して、過去の巨匠の作品で学びを受けました。

中でもミケランジェロのダイナミックな人物表現に影響を受けました。

ジェリコーの馬に対する情熱は続いていて、ローマにおいてもカーニバルの騾馬の競争を題材にした作品を描いていました。

フランスへ帰国後、1819年のサロンに問題作の 『メデューズ号の筏』 を出品し賛否両論をまきおこしました。

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当時の背景

当時のフランスはナポレオンが退けられ、ルイ18世が即位し王政復古が行われる波乱の時代でした。

とも

王が代わる時って国政が荒れるというのは、有名な話ですよね。

ジェリコーもこの時、自ら近衛騎兵に志願しました。

しかし、ナポレオンが復活してルイ18世が亡命する事になります。

近衛騎兵 になれなかったジェリコーは再び画業に戻りました。

問題作 『メデューズ号の筏』

この作品はサロンに発表するわずか3年前に実際に起きた事件を題材にしました。

その事件とは

1816年、フランスの植民地となったアフリカ西海岸のセネガルを目指していたフリゲート艦メデューズ号がモロッコ沖で座礁するという事件がおこりました。

乗客は備えつけの救命ボートで避難しようとしましたが、乗れる人数が限られており、乗客全員が載せる事は不可能でした。

その為破損したメデューズ号の用材をロープでつなぎ合わせて、臨時の筏(いかだ)を作り救命ボートに乗り切れなかった149名を乗り移らせました

最初は救命ボートがいかだを引っ張っていた状態っだたのですが、漂流初日に悪天候になり、救命ボート自体も危うくなるとボートの乗組員が筏をつないでいたロープを切断してしまいました

。牽引船と保存食を失った筏はあてもなく荒海をさまようことになります。

筏は12日間漂流したあげく、他の船によって発見されました。

149名にうち、生存者はわずか15名しかいなかったそうです。

当時のフランス政府はこの事件をひた隠しにしました。

それでもやがて人々の知るところとなり、12日間の漂流期間中、筏の中では殺人、食人を含む非人間的行為が行われていたことが明るみにでました。

ジェリコーはこの事件に大きな衝撃を受け、絵画化を決心しました。

完成した絵は12日間漂流した筏がようやく停泊中の感染を遠くに見つめ助けを求めててを振りつつも、戦艦が遠ざかりつつあることに気づき絶望する場面を描き出しています。この後、戦艦は筏に気づき援助に向かいました。

希望と落胆、生と死が隣り合わせの極限状態に置かれた人間のドラマを見事に描きました。

実際ジェリコーは筏に乗っていた生存者の話を聞いたり、病院へ行って瀕死の病人の肌をスケッチしたり刑場で処刑された犯罪者の首をスケッチするなどしてリアリティを追及しました。

この作品はあまりの凄惨な表現の為、政治的批判を暗喩していると思われ、当時のサロンで賛否両論を、巻き起こしました。

この作品をルーブル美術館が買取に意欲を示しました。ところが、実際には作品の封印を意図した申し出だったんです。

作品を購入後ジェリコーに支払いもせず、作品も展示する事なく倉庫の奥深くに隠しました。

これに失望したジェリコーは翌年の1820年に作品をルーブル美術館から取返し、イギリスへ渡りました。

そしてイギリスでこの作品を展示したところ、この事件と政治的に関わりがない為作品は好評をもって迎えられました。

ジェリコーによると、『この作品はワンボトルのラベルと大差ない作品だ』『単なるイーゼル画だ』と寝下いていたと言われていますが、それは人災がフランスから認められなかった自嘲的発言と今でも言われています。

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その後のジェリコーは

1820年から1822年はイギリスに滞在しました。

1821年には代表作の一つ『エプソムの競馬』を描きました。この作品は印象派のエドガー・ドガを先取りするものと評されています。

その後、フランスへ帰国後1822年から1823年にかけて精神障碍者をモデルとした人物画連作を描きます。

1823年には落馬や馬車の事故などがもとで持病の脊髄結核が悪化し1824年1月に死去しました。

『まだ、何もしていない』と最後言葉を発しました。

まとめ

  • ジェリコーはメディーズ号の筏という作品を描き、サロンから政治的批評を受けた
  • ルーブル美術館から絵画の料金を貰えず、展示されず、倉庫の奥深くに隠された
  • イギリスでは政治的な関係がなく好評だった

という事がわかりました。

一枚の絵が物語る事件の壮絶さと、それをひた隠しにしようとする国。

149名から15名になった筏の生存者。その15名がどうやって生きたか。

人間を食べたという事実と人間の生と死をそのまま絵画として後世に残したジェリコー。『まだなにもしていない』と言っているジェリコーに伝えてあげたいですね。

テオドール・ジェリコー「メデュース号の筏」額付き M20号相当 プリハード 複製画 ロマン主義 ルーブル美術館/所蔵 P8161
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